ゆで卵のようにつるりとしていた
最終更新 : 2018/09/08
最終更新 : 2018/09/08
ある夏の日のこと。一人暮らしの会社員の男がベッドで眠っている。朝を迎え、携帯電話のアラームが鳴り出した。男はアラームを停止しようと右腕を伸ばした。携帯電話をつかめず、彼は飛び起きた。
「何だこれは……」
右腕を眼前に持ち上げ、男は呆然とした。右手が無いのだ。彼の右の手首は、ゆで卵のようにつるりとしていた。無事な左手で触ってみると、実にすべすべしている。きめこまやかでなめらかな肌触りというやつだ。はて、先はどこへいったのか。男はベッドの下を覗き込み、首を伸ばし部屋中へ目をやったが、どこにも見当たらない。
「これはきっと夢だな」
男は呟いた。仕事のし過ぎで疲れて、こんな変な夢を見ているのだろうと考えた。
「夢から覚めたら会社を休む電話を入れよう。もう何日も残業続きだし、土日も返上して働いてきた。ばちは当たるまい」
時刻を確認すると八時だった。始業時刻は八時三十分で、通勤に徒歩で十分ほどかかるということは――。
「まずい。急がなくては」
不思議なもので、もしこれが夢でないとすると、男はどうにも会社を休む気にならなかった。
右手首が無くなっているという一点を除けばいたって元気だし、それに何より「手首が無くなったので休みます」などと言えば、気が狂ったと思われてしまう。
片手での着替えは大変だった。シャツのボタンを留めるのにも苦労した。クールビズ期間中でネクタイを締める必要がなかったのは救いだった。男は携帯電話をポケットに突っ込み、鞄を左脇に抱えてアパートを飛び出した。
職場へ着き事務室のドアを開けると、三十台あまりのパソコンの前にはいつも通りの顔が並んでいた。ところが、その中には同期社員である鈴木の姿が見当たらなかった。鈴木は馬鹿がつくほど真面目な社員で、クールビズ期間でも上着を着込みネクタイを着用。有給休暇も使わずに、無遅刻の皆勤賞の男だった。
始業時刻を迎え、ベルが鳴った。社員はのそのそと立ち上がり、部長の方を向いた。朝礼が始まった。男の手首に気付いている者はいないようだ。
男は朝礼の間、鈴木のことが気になっていた。部長も同じく気にしていたようで、朝礼の最後に社員へ質問した。
「……鈴木君のことで何か聞いている人はいませんか」
誰からも声は上がらなかった。
その時だ。事務室のドアが乱雑に叩かれた。皆がドアを注目した。やがてドアが開かれ、鈴木が現れた。よほど慌てていたのだろう。ネクタイは曲がり、シャツのボタンも掛け違えている。女性社員の悲鳴が上がった。誰もがその光景に凍りついていた。
鈴木のスーツはぼろぼろで、足を引きずり、左肩を押さえていた。彼の手は血で濡れていた。
「あの馬鹿、事故ったな」
男は周囲が動けずにいるのに構わず、鈴木に駆け寄った。肩を支えて声を掛けた。
「馬鹿な奴だな。こういう時は無理をせず会社を休め」
返事は無かった。鈴木の首は、ゆで卵のようにつるりとしていた。
(おわり)
溟犬一六(めいけんいちろ)。雑種のクリエイター。ハンドル名はガバチョなど