助かる隣人

最終更新 : 2018/09/08

 春。不用な品を売り払い、七階建てワンルームマンションの二階に越して起業した。埃のにおいの染みついた、陰気な部屋だった。安くなければここで暮らそうとは思わないだろう。
 覚悟しての起業とはいえ、不安はやはりあった。最初のうちはただがむしゃらだった。家賃と税金と人件費と、売上高の背比べはしばらく続いた。しかしほどなくして店は軌道に乗り、従業員も増え、火の車の恐れはなくなった。仕事が楽しいなど、サラリーマン時代には考えられなかったことだ。身も心も軽くなり、世界が違って感じられる。
 余裕のできた私は今、隣人の存在が気に掛かるようになった。隣人との面識はない。集合ポストにも玄関口にも表札がないために姓も分からない。
 薄い壁から聞こえる生活音と声質から、隣人は若い男性だと思われた。
『もう嫌だ』
 それが隣人の口癖だ。隣人はいつも疲れていた。隣人の帰宅はいつも真夜中、零時をまわってからだった。隣室の扉が閉まる音でこちらが目を覚ます、ということが度々あり、そして彼のネガティブな口癖を聞くはめになっていた。
 隣人は、いわゆるブラック会社に勤めているのかもしれない。休日もお構いなしに夜遅くに帰ってくるというのに、私が日中活動している時には、すでに会社へ行っているのだろう。隣人の気配を感じることが出来なかった。
 隣人の口癖はもう一つある。
『大丈夫だよ』
 それは電話中の口癖だった。
『大丈夫だよカオリ。上手くやってる』
 痛々しい言葉だった。カオリさんとやらがもし、隣人の「もう嫌だ」を聞いたら、きっと飛んで駆けつけてくれるだろうに。私は隣人の強がりを聞くたびに、溜め息をついていた。


 隣人を気にするようになってから一年が経とうとしていた。春が近付き、私の事業がうまくいくほどに、隣人は追い詰められていくようだった。
 真夜中、隣室から響く、扉の閉まる音で目が覚めた。もう三月も末だというのに、室内はひび割れるように寒かった。午前三時だった。
 不規則な足音が鳴り、すぐ横の壁からベッドの軋む音がした。
『もう嫌だ』
 呪いのような声から逃れるように、私は寝返りを打った。
『しにたい』
 私は跳ね起きて隣室の壁を見つめた。今、彼は死にたいと言っただろうか。
『死にたい』
 確かに言った。何だ。どうする。私はどうしたら良い。もし何もしなければ、彼を見殺しにしたら、私は罪に問われるだろうか。喉が干からびる。嫌な汗が背中を伝う。
『もしもし、カオリ――』
 隣人は電話を掛け始めたようだ。詳しい内容は聞き取れないが、弱々しくも真剣な口調から、本音を吐き出しているように察せられる。徐々に、聞こえる声が大きくなっていく。
『ごめん。俺、無理だった』
 玄関へと走る音。扉を開け放す音。
 私は数秒置いてから息を吸い、外へと走り出た。まだそう遠くへは行っていないはずだ。ここは二階だ上か下か……。落下防止の柵を掴み、地上に広がる闇に目を凝らす。マンションから通りに出るために必ず使うはずの道をしばし睨んだが、人影はない。耳を澄ますが、駆ける足音もない。ならば屋上か。エレベーターへ向かう。
 エレベーターは五階を示して止まっている。五階? エレベーターは使われていない。私は矢も盾もたまらず、階段を駆け上がった。屋上への扉には南京錠が掛かっており、立入禁止の痛んだ貼り紙がされていた。
 呼吸が苦しい。膝に両手をつき、肩で息をした。
 どこへ行ったのだ。警察に通報するか? いや、いくらなんでも早計だ。まだ自殺すると決まったわけではない……決まっていないだろうか? 少なくとも屋上には出ていない。私が外を見る前に、もうどこかへ走り去ってしまったのだろうか。
 私は悄然と二階へ戻った。隣室のドアノブに、恐る恐る手を掛ける。手の平に感じるざらつきが怖いほどに冷たい。鍵が掛かっている。ドアベルを鳴らす。出てくるわけもない。
 ――自殺しようと部屋を飛び出した人間が、鍵を掛けるだろうか?
 その疑問は希望にすり替わった。私は逃げるように自室へ戻った。数時間、隣室からは何の物音も聞こえてこなかった。隣人は携帯電話を持って行ったろうか。カオリさんと電話していたはず……ならばカオリさんは、彼を追っているだろうか。
 恐怖と疲労とで、私は目をつぶった。
 ――聞いていない。私は何も聞いていない。
 心の中で叫んでいるうち、私は眠ったらしい。次に聞いたのは雀の声だった。
 鏡の前に立つ。疲れが見て取れる。目を見る。恐怖と憤りが沸き上がった。
 ――私は白状だ! 見殺しにした! 犯罪者だ!
 ああ、彼は無事だろうか。こんなことになるなら、もっと早くから相談に乗ってやるべきだった。いつだって壁越しに声を掛けることはできたはずだ! 「もう嫌だ」という彼の口癖が、今では救難信号に聞こえてならない。もう遅いだろうか。そうだ、もし彼が無事なら、今の仕事を辞めさせて、私の事業で使ってやるのはどうだろうか。
 叶わないかもしれない償いの方法を探すことに夢中になっていると、ようやく気付いた。隣室が騒々しい。彼の部屋が騒がしい! 複数の足音が聞こえる。警察という言葉が脳裏をかすめ、私は外へ飛び出した。
 真っ白な日差しが目に痛かった。私は自室の扉の前で立ちすくんだ。開け放しの隣室へ引っ越し屋とおぼしき作業服の男が往来している。やがて隣室から、別の若い男が出てきた。シャツにジーンズの、ラフな服装の青年だ。男は私に気付き、声を掛けてくる。
「もしかして、お隣の方ですか?」
 聞き覚えのある声だ。聞き違えるはずがない。隣人の声だ。言葉を詰まらせ頷くと、隣人の背後から小柄な女性が顔を覗かせた。ショートカットの、愛嬌のある顔立ちをしている。格好を見る限りだと学生だろうか。
「あ、コイツは妹のカオリっていいます。今日は引っ越しを手伝ってもらおうと思いまして。騒がしくしてすみません」
 カオリ……電話相手の女性の名だ。そうか。兄妹を交互に見ながら、私は安堵した。自殺を思いとどまった隣人は、悪環境の会社を辞める決心をつけたのだろう。実家にでも帰って、新しい人生を歩むのかもしれない。
 隣人は頭を下げた。
「これからよろしくお願いします」
 隣人が笑顔で名乗ると、カオリさんはドアの横を示した。「こういう字です」ということだろう。小奇麗な表札がそこにあった。
 隣人はさわやかに引っ越し業者へ指示を出した。私は、部屋へ運び込まれるベッドを眺めながら、わけも分からず、悩み事があったら何でも相談しなさいと、気付けば叫んでいた。


(おわり)


プロフィール

溟犬一六(めいけんいちろ)。雑種のクリエイター。ハンドル名はガバチョなど