引っ掛け薬

最終更新 : 2018/09/08

 博士と助手が研究室でテレビを眺めている。
 テレビの中ではチャンピオンベルトを巻いた屈強な男が、グローブをはめた両腕を天高く突き上げている。
「何度見ても最高ですね博士。フェイク山崎の連続KO防衛シーン」
「ふむ。確かに見事じゃな」
「右と見せかけて左! ジャブと見せかけてアッパー! あのフェイントに引っ掛からない奴はいないですよ」
 博士は溜め息をついた。
「昔はな。だが残念じゃが、山崎は二十六を過ぎてから確実に鈍ってきとるよ。彼のフェイントに引っ掛かる相手も少なくなってきておる。多分、明日の試合が見納めになるじゃろうな」
「えー、そんなあ……」
「挑戦者は若いし、ありゃ天才じゃよ。わしもボクシングは昔からよう見てきたが、あの挑戦者を退けるには、全盛期の山崎でなければ――」
 その時、研究室のドアが勢い良く開かれた。
「頼む! 『引っ掛け薬』を売ってくれ!」
 博士と助手は、研究室に飛び込んできた男とテレビ画面とを見比べた。間違いない。フェイク山崎、その人だった。山崎は脇にボストンバッグを抱えている。
 博士は山崎に聞いた。
「引っ掛け薬のことをどこで聞いたのじゃ」
「俺も長いことチャンピオンをやってる。取り巻きは一クセある奴ばかりになる。遊び場もドス黒く、深くなる……そこである詐欺師と知り合ったのさ。あんたの世話になってる奴だよ。奴は言っていた。あんたの発明品を使えば、どんな奴でも引っ掛かるようになるって。俺の衰えた技に光をくれ!」
 助手は嘆いた。
「そんな! フェイク山崎、あなたのこと見損ないましたよ!」
 山崎はつらそうな顔で博士を見つめた。博士は鼻を鳴らした。
「あの落ちこぼれ詐欺師め。まったく口の軽い奴じゃ。……それで山崎よ、いくら出すつもりじゃ」
「だめです博士!」
 すがりつく助手の手を博士は振り払った。その瞬間、博士は山崎に見えないように、助手に微笑みながらウインクした。
 山崎は思い詰めた表情で、持ってきたバッグを机の上に置いて中身を見せた。札束の山だ。
「全財産だ。俺には妻も子供もない。親も死んでる。欲しいのは金じゃないんだ」
「欲しいのは勝利だけじゃと?」
「俺はボクサーとして伝説を残したいんだ。俺を引退させるのは敗北じゃない。俺を引退させて許されるのは、年齢だけだ」
「協会規定の年齢まで勝ち続けるということか。大した根性じゃ。薬ならほれこれじゃ。持ってけ。その瓶に入ったカプセルを一粒飲めば、半日は効果が持続するからの」
 助手の肩は震えていた。山崎は礼を言い、研究室を去った。
 ドアが閉まると、我慢しきれなくなったように、助手が吹き出した。
「博士……明日の試合、僕はフェイク山崎を全力で応援しますよ! うまく引っ掛けましたね!」
「そうじゃな。あのただのビタミン剤でもしも勝つようなことがあれば、それは山崎の熱い心が生み出した、真の実力じゃて」
 まんまと偽物をつかませた博士だったが、声が大き過ぎた。研究室のドアが乱暴に開かれる。
「聞いたぞコラァッ!」
「げげっ!」
 山崎が研究室へ怒鳴り込んで来た。
「とんでもねえタヌキジジイだぜ!」
「ま、まあ待て山崎。チャンピオンが詐欺師と同じ道を歩んではならんよ」
「うるせえ早く本物をよこせ!」
 胸ぐらをつかまれ、博士はやむなく本物の引っ掛け薬を山崎に渡した。山崎は去り際に言った。
「罵ってもらって構わない。俺は最低のボクサーだ。だが、俺は最後まで勝ち続けるぜ……」
 山崎の去った研究室で、助手は肩を落とした。
「残念です。僕のフェイクが、本当に悪の道に落ちてしまった。でも、このことを知らない少年たちにとっては、フェイクが伝説になることは決して悪いことじゃないですよね? せめて、引退までずっとずっと勝ち続けてくれれば」
「いや、そりゃあ無理じゃよ」
「え?」
 
 翌日、フェイク山崎はドーピング検査に引っ掛かった。


(おわり)


プロフィール

溟犬一六(めいけんいちろ)。雑種のクリエイター。ハンドル名はガバチョなど