気の利かないエレベーター
最終更新 : 2018/09/08
最終更新 : 2018/09/08
月の照らす夜だった。馬鹿げた納期設定のおかげでこの二カ月、日付が変わるまで残業が続いている。休日も返上だ。使い潰されるプログラマーとして我慢すべきなのだろうが、どうにも生きた心地がしない。独身で親も死んでしまった身としては、なんのために働いているのか、なんのために生きているのか分からなくなる。くたびれた背広も、もう随分長いことクリーニングに出せていない。
秋を迎え、風が冷たかった。月の無い夜に、私はぼんやりと、帰宅の道を外した。歩いた経験のない道をあえて選んだ。疲労から一秒でも早く横になりたい気持ちはあったが、横になれば一瞬後には朝がきてしまう。また会社に行かなければならなくなるのだ。
十分ほど当て所もなくさまようと、見覚えのないマンションが目に入った。何階建てだろうか。見上げた外観の頂上は暗闇に溶けている。築何年経っているだろう。見るからに古びていて、寒々しい感覚があった。
近所にこんな建物があっただろうか。
歪んだ吊り看板を眺めると、「サイディーユ中津川」とあった。マンションの名だろう。サイディーユ……意味は分からないが、この心持ちの悪い外観にしゃれたネーミングでは、ひどく滑稽に感じられる。
電子ロックも何もない、開け放してある門の中へと、誘われるように進んだ。門を入ってすぐ、卵の臭ったようなにおいが鼻をついた。横手に見える物置は扉が開かれており、中には膨れたごみ袋が山のように見えた。
私は首を振って先へ進んだ。突き当たり右手の壁に設置された住民用のポストは、ダイレクトメールやチラシで溢れ返っている。住民はどういう神経をしているのだろう。管理人も何かしらの対応をすればいいのに。だらしない――そう思って、しわだらけの背広を着ていることに気付き、私に言う資格はないなと鼻を鳴らした。
ポストの反対側にはエレベーターがあった。扉の窓には暗闇が広がっており、その中心に数本、だらりとケーブルが下がっている。横に光る数字が四階を示している。私は近付き、上へ向かうボタンを押した。
一向に反応が無かった。故障しているのだろうか。私は引き返し、周囲を観察した。しかし、階段が見当たらない。
「裏手だろうか」
移動手段がエレベーターだけということはないだろうから、どこかに階段があるはずだ。私は門を出て、マンションの円周を探った。一周して、階段が存在しないことを確認した。
エレベーターの前に戻り、私はしばしの間、何をするでもなく立っていた。本来ならばもう眠っている時間だ。帰らなくては。明日に備えなくては……。そう思いながら、エレベーターの前に近付いた。
ふいに、四階を示すボタンが点滅した。扉の窓の中で、ケーブルがうごめく。
「下りてくる……」
扉が開かれた。光があふれた。無感動なつもりでいたが、私の鼓動は高鳴っていた。これは恐怖だろうか。いや、恐怖ではない。恐怖していれば、このエレベーターに乗り込みたいなどと感じるはずはないのだから。
見覚えのないマンション。階段のない、あり得ないマンション。私は期待しているのだ。このエレベーターは、私をどこか遠くへ連れて行ってくれるかもしれない。
私は吸い込まれるようにエレベーターへ乗り込んだ。何階へ向かおうか。そういえば最初このエレベーターは……私は四階へ向かうボタンを押した。
震動を感じながら、溜め息をつき、首を振った。つい夢のようなことを考えてしまった。私には仕事を任された責任があるのだ。現実から逃げ出すなど許されることではない。
音も立てず、扉が開かれた。外へ出る。細い廊下が左右へ伸びている。私は右へ進んだ。痛んだ木製の扉がある。その中に、人の動く気配を感じる。扉を開くと、淀んだ空気と、パソコンのキーボードを叩く音があふれ出した。私は中へ進むと言った。
「おはようございます」
そこは職場だった。
(おわり)
溟犬一六(めいけんいちろ)。雑種のクリエイター。ハンドル名はガバチョなど